憲法は法律の親玉でしょ?
そう考えている人はかなり多いのではないでしょうか。
なぜかというと、学校で「ピラミッド構造」を見ているからです。
憲法の階層構造
これを見ると憲法は法律の親玉のように感じてしまいますよね
そのヒエラルヒーのトップが「憲法」になっているわけですから、勘違いするのも無理ありません。
しかし、結論からすれば、
法律の親玉は憲法ではありません。
そもそも、憲法は国の「土台」であり、ヒエラルヒーのトップではないのです。
本来ならこう説明するべきです。
なぜかというと
憲法と法律では「主体」「客体が」違うからです。
憲法 | 法律 | |
主体 | 国民 | 国家権力 |
客体 | 国家権力 | 国民 |
そうは言っても、憲法には3大義務があるじゃないか
確かにありますが、本来、憲法は「権利」を明記するものであって義務を明記するものではありません。
ではなぜ、憲法が権利を明記するものなのでしょうか。
それが、先ほどの主体と客体の話になります。
そもそも、憲法は国家権力を縛るものです。
第一編で基本的人権といういう「目的」を定めて、第二編の統治機構で「手段」として国家権力にそれを守れと言っているわけです。
憲法99条を見てください。
第10章 最高法規 第99条 【憲法尊重擁護の義務】 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 |
から、国民は憲法尊重擁護義務はありません。
憲法は国民の見方なのです。
YouTubeでも少し説明しています。
憲法に対する価値観が変わった本
憲法についての価値観が180度変わった本があります。
それが
この本を知れば、憲法に対する苦手意識もなくなるでしょう。
この本は憲法とは何かに簡単な言葉で口語体で書いています。
講義再現版というだけあって語りかけるような口調で説明しているので、飽きることがありません。
法律書の中では「入門書」の位置づけですが、文字通り入口に立たせてくれる1冊です。
私は本は基本的に「楽天」で購入しています。
理由は「楽天ポイント」が貯まるからです。
楽天ポイントは色々使えて非常に便利なので。
よく憲法と法律を同視している人がいますが、主体と客体の点において、違うものです。
昔は憲法は法律の親玉で堅苦しい物だと考えていました。
しかしながら、それは全くの誤解でした。
憲法と法律の違いに触れつつ「立憲主義」を考えていきます。
憲法
憲法の特徴
- 憲法は法律ではない
- 法律の親玉ではない
- 憲法は国民に義務を課すものではない
- 国民の基本的人権をかくもの
これらを知りませんでした。
憲法の主体と客体
憲法 | 法律 | |
主体 | 国民 | 国家権力 |
客体 | 国家権力 | 国民 |
このように主体と客体が逆になっています。
現代に欠けているもの
今の感染症対策に欠けているものはまさにこの憲法的視点です。
飲食店の皆さんも隷属するだけでなくヨーロッパの人達のように抵抗してみましょう。
そもそも、感染症法にこう書いてあるからという理由だけで従っているのは危険です。
そういう人は大抵
(国民の責務)第四条 国民は、感染症に関する正しい知識を持ち、その予防に必要な注意を払うよう努めるとともに、感染症の患者等の人権が損なわれることがないようにしなければならない。
といった感染症法の条文などを根拠に国民に義務を課して制限しようとします。
確かに法律に書かれているから従わなければならないでしょうが、重大な事を完全に考慮していません。
それは、「法の支配」です。
法の支配
形式的法治主義 ~悪法も法である~
今の日本は戦前の『形式的法治主義』ではありません。
それは一言で言うと、「悪法も法である」ということでした。
つまり、法律というのはただ、体裁だけが整っていたら良いのではなくてその内容も適正であることが求められます。
グローバルダイニング、東京都を提訴
今回グローバルダイニングさんが東京都を提訴しましたが、根本は東京都のやっていることが適法ではなく〝違法〟であるということを前提に裁判しています。
法律だからと言って何が何でも従わなければならないというのはそれこそ〝デマ〟です。
「悪法も法である」の状態になってしまいます。
内容の適正さも求められます。
なぜなら日本は、やはり「法の支配」だからです。
立憲主義という先人の知恵
耐えられない重み
10㎏、20㎏の重り、あるいは50㎏ぐらいの人は抱えれるかもしれません。
しかし、それが100㎏、200㎏、500㎏となってくるともう持てないですよね。
それを今の日本人は「まだイケます!まだ大丈夫です!まだ、ガマン出来ます!」
と言って、本来なら持てるはずもない重りを持とうし、ガマンできない痛みすら気絶するまでガマンしようとしているかの様です。
見ていて、日本に住んでいながら、日本人が怖くなってきます。
血と汗と涙を流して獲得した立憲主義
そうならないために、先人達が現代を築き上げてきたのに、非常に残念で且つ口惜しく、先人達に申し訳がありません。
一人一人の幸せを願って多くの血と汗と涙を流してきたのか現代の日本人はもう一度よく考える必要があります。
その理由は立憲主義にあります。
立憲主義とは ~守り刀としての憲法~
『国家権力を憲法で縛ることによって国民の権利・自由を擁護する』ことです。
つまり、憲法が私たちの生活を守ってくれているんですね。
要は、憲法は守り刀というわけです。
それなのに、現代の人は政府も分科会も専門家も医師も、そして我々国民もその憲法を完全に無視しています。
そんな状況では憲法がもはや生きているかどうかも疑わしくなります。
憲法99条
憲法99条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
国家権力者など公務員は憲法99条で『憲法尊重擁護義務』があるので守らなければならず、憲法はその人達を縛っているのですから邪魔な存在とも言えます。
しかし、私たちはこの憲法は捨ててはなりません。
現在の息苦しさはこの立憲主義的考え方が欠如しているため起こっていると考えます。
普通は考えないでしょう。
生きていて憲法を真面目に考えようとする人は正直そんなにいないと思います。
現代の日本は英米法の流れをくんだ憲法になっています。
民法や刑法などはフランス・ドイツなどの大陸法的な考えが根底にありますが、憲法は〝生まれ〟が違うのです。
現代は本当に民主主義?
日本は民主主義の国だと学校でも教わります。
しかし、今は本当に民主主義なのでしょうか。
民主主義と言う割には、一部の権力者の感情や利害だけで政が決まっている感じがあります。
その民主主義を達成するための手段も必ずしも絶対正義ではありません。
民主主義を達成するための手段
民主主義を達成するための手段として何があるでしょうか。
考えてみて下さい。
学校などで一度は誰でも必ず習う民主主義
皆さん誰もが人生一度は必ず聞いたことがあるはずです。
なぜ?
「いやいや、自分は不登校だったから」と言う人も、町に出れば選挙カーで嫌でも耳にしたことがあるでしょう。
民主主義と選挙
民主主義を達成するための手段
それは、
「選挙」「投票」です。
民主主義の欠点
多数決原理
「多数決」
と聞けば、
これはいい!!
と、両手放しで、誰もが絶賛するでしょう。
なぜでしょうか。
だって、学校でそれがいいのもだと教わるから
〝多数決〟は絶対正義でしょ
そういう意見が多いと思います。
しかし、「多数決原理」は必ずしもプラスの面だけではありません。
多数決原理のマイナス面の具体例
- 民意が「負のベクトル」に流れると、抑えが効かなくなる
戦時中の反省
当時は、「お国のために」「皆のために」と言って、多数の日本国民が犠牲になりました。
これは、多数決原理が「負」のベクトルに向いた典型的な結果です。
社会主義
欧米列強に追いつけ追い越せの明治時代
明治の日本は、幕末の頃に欧米列強が日本に開国を求めて進出してきました。
日本の植民地回避
その行き着く先は、「日本の植民地化」です。
その理由は、
端的に言うと、明治の先人たちの努力です。
具体的には
- 不平等条約の改正
- 殖産興業・富国強兵
- 憲法などの「法」の整備
不平等条約は、幕末の頃に日米修好通商条約を締結してしまった結果です。
しかし、
など、先人たちが苦労して日本を守っていった結果、日本は諸外国と肩を並べるようになっていきます。
(乃木希典は天皇崩御に伴い、自らも殉死するなど、明治の先人たちはその覚悟は尋常ではありませんね。)
1933年には国際連盟を脱退するなど、強硬的な姿勢を取っていますが、現代の及び腰の政府からでは到底真似できません。
富国強兵のひずみ
ただ、
日本は「国」・「社会全体」は強固になりましたが、逆に「個人」の保障は不完全なものになっていました。
それが、「欧米列強に追いつけ追い越せ」と富国強兵政策をとった結果です。
つまり、「国」を重視しすぎて、「社会」の枠組みが大きくなり、「個人」が封殺されたワケか・・・
要は、この時代の社会主義的背景が戦時中を経て、現代にそのまま残っているわけです。
日本の法とイデオロギーのギャップ
いっぽうで、現行憲法では、13条の「個人の尊重」の観点から、『個』を”形式的”には重視しなければなりません。
つまり、憲法的視点から考えると、現代は「民主主義」かつ「自由主義」です。
しかし一方で、イデオロギー的な観点から考えると、「全体主義」かつ「社会主義」となります。
社会主義が嫌で、自由主義だと思っていた日本に来たら、日本も社会主義だった
このようなアンバランスが言われているのも、法と実質的なイデオロギーのギャップによるものだと分かります。
今回の感染症対策でも因果関係と相関関係を考えることは大事であると考えます。というより、思考回路の根本として「PならばQ」という因果関係やその「逆」も成り立つのかという捉え方は物事の是非善悪を考える上でも重要になってくると思います。
Case Study
Q. Bさんの死亡の原因はAさん?それとも医師X?
AさんがBさんに対してナイフで襲い掛かり、Bさんは複数個所を切られるなど負傷しました。Aさんは逃げましたが、Bさんはたまたま通りががった人が救急車を呼んで病院へ運ばれました。しかし、そこで医師Xによる手術ミスによってBさんは死亡してしまいました。
Bさんは負傷したとはいえ手術をすれば命は助かったのですが、結果的に死亡してしまったことについて、逃げたAさんはどこまで責任を負うのでしょう。
【 Case Study】の因果関係と相関関係を考える
AさんがBさんにナイフで襲い掛かる
上記のCaseは確かにAさんがBさんにナイフで襲い掛からなければBさんが救急車で運ばれることもなかったし、手術もなかったでしょうから、Bさんが亡くなることはなかったでしょう。
Bさんが死亡したことはあくまで「手術ミス」によるもの
ただし、Bさんが死亡したことはあくまで「手術ミス」によるものでありナイフによる傷が原因ではありません。
責任はA・B・Xの誰か
となれば、AさんがBさんの死亡についてまで責任をとらなくてはならないのはおかしいということになります。
死亡はあくまで「医療ミス」によるもの
死亡はあくまで「医療ミス」によるものなのですから、そこについては『業務上必要な注意を怠り、よって死亡させた』ので「業務上過失致死」ということになります。
Bさんの死亡についてAさんは「因果関係」がない
要は、Bさんの死亡についてAさんは「因果関係」がない、ということになります。
道義的感情はある
一方で死亡したBさんの遺族としてはAさんがBさんを“病院送り”にしなければBさんが病院に運ばれて手術により死亡することはなかったわけですからAさんに対しては道義的感情として恨みを抱くでしょう。
法治国家として
ただ、やはりだからといってBさんの死亡までAさんに全部の責任を負わせるのは法的には違うと言わざるを得ません。
それをやってしまったらやはり「法治国家」ではなくなります。
Bさんの死亡に関してAさんも一連の流れから考えたらその原因を作ったわけですから責任はあるでしょう。
ただし、それはAさんの傷害とBさんの死に関係性があるというだけで因果関係ではありません。
刑法的に言えばAさんの傷害という実行行為とBさんの死という法益侵害の結果に因果関係はないということになります。
過度の感染症対策による偏見は悲しい
感染症対策もこういった視点がなければ、飲食店や感染者、に対しても偏見などが生じる危険性があります。
比較検証による考え方も重要
比較検証
「比較検証」という考え方があります。
要は、有効性95%だからと言って、それが即因果関係が認められ効果があると言えるかどうか比較対象を検証してみるという考え方です。
具体例
ワクチン接種に関しても100人中80人が効果があったといっても、数字だけ見ればワクチンが有効だったのだろうと思えなくはありません。しかし、本当にそれを比較するなら、感染者の中で、ワクチンを打った100人と打たなかった100人とで比較検証してみる必要があります。
それでどちらも100人中80人に重症化がみられなかったということになればワクチンの有効性にも疑問が生じてきます。
また、今回の新型コロナウイルスに関しては分かっていることと、分かっていない部分もあり、多くが判明するのは何年、何十年先かもしれません。
個々の感染症対策は個々人の判断
個々の感染症対策も、推測、仮説、検証、相関関係、因果関係のどの段階にあるのか一人一人が考えて行動していけばいいよね。
『思考停止』 に陥らないようにするためにもそれが必要
もしそれすらやらないというのなら、それは完全に『思考停止』に陥っています。
「因果関係」を突き止めようと世界で多くの研究がなされています。「因果」や「相関」をごちゃ混ぜにして国民を煽るマス・メディアの言うことをそっくりそのまま聞いているだけでは判断を誤る可能性が高いのではないかと思います。
なぜ憲法などの「法」を学ぶのか
憲法などの「法」を学ぶのは物事の是非善悪をなるべく間違わないようにしたいからでもあります。
人間らしく生きるにはどうすればいいか考える必要がある
「人間らしく」生きるにはどうすれば良いか、一人一人が幸せを追求できるようにするにはどうすればいいか、先人たちが長い年月をかけて、叡智を結集させたものが「法」です。
例えば憲法13条も国民一人一人の幸せのカタチを尊重しています。
まとめ
『国家権力を憲法で縛ることによって国民の権利・自由を擁護する』
- 憲法は法律ではない
- 法律の親玉ではない
- 憲法は国民に義務を課すものではない
- 国民の基本的人権を書くもの
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